ぴろしです。

8月13日の月曜日、

会社に夏休みをいただいて、

茨城県龍ヶ崎市の牛久沼へ行ってまいりました。

目的はもちろん『うなぎ』であります。

なぜ牛久沼かというと、

それは牛久沼が『うな丼』発祥の地と言われているからです。

目次
      1. 時はまたまた江戸時代、大久保今助といううなぎ大好き人間がいました。今助は水戸亀作村(現在の常陸太田市)出身。17歳で江戸に出て最初は水戸藩の草履取り(主人の履物を出し入れする=下僕)から、頑張って水戸藩御用達(幕府に出入りができるなど特権のある商人)まで成り上がり、たまたま拾った一分金で富くじを買ったら大当たりの大金持ちに。そのお金で江戸三座のひとつである日本橋中村座の金主(スポンサー)となり、大阪から人気役者を次々と呼び寄せ、またまた大儲け。最終的には座元に代わって中村座の経営にまで当たっていたとのことです。今助は日々多忙を極め、大好きな鰻の蒲焼もなかなかゆっくり食べられない始末。歌舞伎の興行師になってからは芝居中外出厳禁のため鰻屋に行くこともできず、出前で我慢。ちなみに当時のうなぎの食べ方は、蒲焼きのみを皿にのせ、ご飯が別の茶碗で出てくるいわゆる定食スタイルが一般的。もちろん出前なので今助のもとに届いて食べるころにはすっかり冷めてしまい、蒲焼の美味しさはほとんど失われていました。今助はどうにかして熱々で美味しい鰻の蒲焼を食べられないかを考えました。ある日の幕間、今助が何気なく客席の方に目をやると、多くの客が重箱詰めの弁当を食べているではありませんか。それを見た今助は重箱のご飯の上に鰻の蒲焼きをのせてしまおうというアイデアを思いつき、早速鰻屋に注文しました。熱々のご飯と焼きたての蒲焼きが一緒に入った重箱の蓋を閉めてしまえば、出前でも温かくて美味しい鰻の蒲焼きが食べられるに違いない。実際に運ばれてきた重箱を今助が空けた瞬間、湯気がふわっと上がり、蒲焼きの甘くて香ばしい香りが鼻孔をくすぐります。しかもご飯にタレがいい感じに染み込み、蓋をしていたから蒲焼きがこれまたいい感じで蒸されてふっくら柔らか。「こいつはうまい!」。今助の発案したうなぎの重箱詰めは『うなぎめし』としてすぐに売り出されました。これが瞬く間に評判を呼び、江戸中の鰻屋で『うなぎめし』を売り出すようになったとのことです。
      2. 水戸藩御用達の大久保今助は、藩の仕事で度々江戸から水戸へ出向いていました。水戸へ行くには水戸街道を通るより、船で牛久沼を渡るほうが早かったため、今助も牛久沼の船をよく利用していました。そして牛久沼の船着き場には茶屋がありました。茶屋のメニューには今助の大好物鰻の蒲焼きが。ある日のこと、茶屋へと着いた今助はいつもの様に鰻の蒲焼定食を注文しました。そして運ばれてきた蒲焼を今助が食べようとしたちょうど時、「船が出るぞー」。どうしてもその船に乗りたかったので焦った今助。咄嗟にどんぶり飯の上に、蒲焼きののっかったお皿をひっくり返して被せ、それを持ったままそそくさと船に乗り込みました。やがて船が対岸に到着。そして今助がどんぶりに被さった皿を恐る恐る持ち上げた瞬間、湯気がふわっと上がり、あとは上の話と一緒。「こいつはうまい!」。この話が牛久沼界隈の飲食店に広がり、『うな丼』として売リ出され、『うな丼』は牛久沼の名物に。今でも牛久沼の周辺には『うなぎ街道』があり、創業100年を超える老舗の鰻屋が軒を並べています。
  1. ★Dr.ピロシが教える今週の印刷用語★

時はまたまた江戸時代、大久保今助といううなぎ大好き人間がいました。今助は水戸亀作村(現在の常陸太田市)出身。17歳で江戸に出て最初は水戸藩の草履取り(主人の履物を出し入れする=下僕)から、頑張って水戸藩御用達(幕府に出入りができるなど特権のある商人)まで成り上がり、たまたま拾った一分金で富くじを買ったら大当たりの大金持ちに。そのお金で江戸三座のひとつである日本橋中村座の金主(スポンサー)となり、大阪から人気役者を次々と呼び寄せ、またまた大儲け。最終的には座元に代わって中村座の経営にまで当たっていたとのことです。今助は日々多忙を極め、大好きな鰻の蒲焼もなかなかゆっくり食べられない始末。歌舞伎の興行師になってからは芝居中外出厳禁のため鰻屋に行くこともできず、出前で我慢。ちなみに当時のうなぎの食べ方は、蒲焼きのみを皿にのせ、ご飯が別の茶碗で出てくるいわゆる定食スタイルが一般的。もちろん出前なので今助のもとに届いて食べるころにはすっかり冷めてしまい、蒲焼の美味しさはほとんど失われていました。今助はどうにかして熱々で美味しい鰻の蒲焼を食べられないかを考えました。ある日の幕間、今助が何気なく客席の方に目をやると、多くの客が重箱詰めの弁当を食べているではありませんか。それを見た今助は重箱のご飯の上に鰻の蒲焼きをのせてしまおうというアイデアを思いつき、早速鰻屋に注文しました。熱々のご飯と焼きたての蒲焼きが一緒に入った重箱の蓋を閉めてしまえば、出前でも温かくて美味しい鰻の蒲焼きが食べられるに違いない。実際に運ばれてきた重箱を今助が空けた瞬間、湯気がふわっと上がり、蒲焼きの甘くて香ばしい香りが鼻孔をくすぐります。しかもご飯にタレがいい感じに染み込み、蓋をしていたから蒲焼きがこれまたいい感じで蒸されてふっくら柔らか。「こいつはうまい!」。今助の発案したうなぎの重箱詰めは『うなぎめし』としてすぐに売り出されました。これが瞬く間に評判を呼び、江戸中の鰻屋で『うなぎめし』を売り出すようになったとのことです。

ん、これ牛久沼関係なくない?

すみません。

『うな丼』の誕生にはもう一説あるといわれておりまして、

水戸藩御用達の大久保今助は、藩の仕事で度々江戸から水戸へ出向いていました。水戸へ行くには水戸街道を通るより、船で牛久沼を渡るほうが早かったため、今助も牛久沼の船をよく利用していました。そして牛久沼の船着き場には茶屋がありました。茶屋のメニューには今助の大好物鰻の蒲焼きが。ある日のこと、茶屋へと着いた今助はいつもの様に鰻の蒲焼定食を注文しました。そして運ばれてきた蒲焼を今助が食べようとしたちょうど時、「船が出るぞー」。どうしてもその船に乗りたかったので焦った今助。咄嗟にどんぶり飯の上に、蒲焼きののっかったお皿をひっくり返して被せ、それを持ったままそそくさと船に乗り込みました。やがて船が対岸に到着。そして今助がどんぶりに被さった皿を恐る恐る持ち上げた瞬間、湯気がふわっと上がり、あとは上の話と一緒。「こいつはうまい!」。この話が牛久沼界隈の飲食店に広がり、『うな丼』として売リ出され、『うな丼』は牛久沼の名物に。今でも牛久沼の周辺には『うなぎ街道』があり、創業100年を超える老舗の鰻屋が軒を並べています。

そうそう、こっち♪

いずれにせよ大久保今助っていう人が、

今の鰻の食べ方を確立したわけですね。

私も食べましたよ。

牛久沼で。

しかもうな丼ではなく、

うな重(特上)を。

まずは肝焼きから。

そして、

ついに来ました。

蓋をオープン♪

ふわっふわで、

口の中でとろけました。

うなぎサイコー!!

おかげさまで楽しい夏休みとなりました(^o^)/

★Dr.ピロシが教える今週の印刷用語★

今週の印刷用語は・・・『刷版』じゃ。

刷版とは、オフセット印刷時に使用する印刷用の版のことじゃ。通常はPS版(Presensitized Plate)というアルミ製の板のことを刷版と呼ぶの。一昔前までは製版されたフィルムをPS版に焼付けておったのじゃが、現在は直接データから版へ書き込み出力をするCTP(Computer To Plate)が主流じゃの。